二日目(後半:防長国境から萩まで)

日本海目指して

 板堂峠も越し、ここからは、しばらく県道62号線の車道を進む。板堂峠近くには21世紀の森が
作られ、萩・佐々並方面から、多くの車がこの道を通って山口に行くようになった。時代は変わった
ものだ。キャンプ場横を通り、吉田松陰の碑の横を過ぎる。28歳の時に詠んだものとは思えない
内容の七言絶句がある。昔の人はすごいものだ。
 天気がよくなってきた。このあたりはアスファルトの道も歩かねばならず、路面からの照り返しが
つらい。汗がポタポタ。日射病寸前。上長瀬の一里塚を通り過ぎ、ようやくアスファルトの道から離れ、
日南瀬の休憩所で10分ほど休んだ。その裏に首切れ地蔵があった。休憩中に非常食として持っていた
ポテトチップスをポリポリと食べたが、なんか申し訳ない気持ちになったので、それぞれポテトチップス
一枚を供えた。もとから首が切れていたお地蔵さんと言い伝えられている。完全に都会の喧騒から
離れた田舎の中だ。時々家を遠くに眺めることはあるが、人に会うことはない。首がないので少々
不気味ではあったが、今はお地蔵さんがせめてもの話相手になってくれる。


11:45

←(吉田松陰の碑文)

 松陰先生は、安政六年、江戸に更送されるときにこの地で、
 「幕府の命令で江戸に送られるが、私の真意は天に正したらわかるはずである。ここは五月雨が降り、ほととぎすが鳴いている。ほととぎすは血を吐くまで鳴くというが、その血で、このあたりのさつきつつじも真紅に燃えている。自分の胸中も同じ思いがする」といった内容の句を詠んで国の行く末を案じたという。時に28歳。
(私は??歳、いまだ先生の足元にも及ばない)


12:14 上長瀬一里塚。原型に近い形で残存している県指定の史跡。

12:30 日南瀬の石風呂(復元)と休憩所。

首切れ地蔵。

碁石の打ち方でけんかになり切り殺された人の家来がこの地で夢を見た。土を掘り起こすとお地蔵さんの首が出てきて、仇討ちがかなったという。

もともと首が離れていたので首切れ地蔵と呼ばれていた。

 

佐々並から一升谷を下って明木へ

 しばらく国道262号を歩く。車が飛ばしている横を歩くのはつらいものがある。ドライバーから見て、
こんな炎天下歩いている私はどう映っているのであろうか(どうも映っていないか)。佐々並が近づいて
きたところで、再び街道に。佐々並の街道筋は、なんとなく昔を偲ばせる。萩と山口の中間地点として
宿場があったのだろう。文久3年(1863)に萩政府と諸隊が衝突し、佐々並もその舞台になって家屋の
被害を受けたという。道を歩いていると家の中からラジオの音が聞こえてくる。ゆっくりした時間が
ここでは流れている。
 佐々並の街並みを越すと、千持峠に至る。このあたりの道は森林帯の中の山道だ。萩往還の時代
にタイムスリップしてしまいそうである。突然、侍が飛び出してきたらどうしようか。
小さな峠を越えたところにある七賢堂の展望台に着いた。ここから日本海が見えるという。しかし、
竹やぶなどが邪魔し、また遠くがかすんでいたので確認できなかった。しかし、萩の町はそれほど遠く
ないことを実感する。
 明木に向かう道は、この先、長い下りの山道である。一升谷の石畳と呼ばれ、萩往還の見所の一つで
あるが、ここも昔を感じさせるところだ。かつて日本のいたるところに人を化かすキツネやタヌキがいた
(らしい)。彼らはどこに追いやられたのだろう・・と考えながら歩いていたら、ちょうど3人組のタヌキいや
中年のおばさんが反対方向から歩いてきたではないか。まさか、と思ったら、やっぱり人間だった。
はじめて人に会ったので、少し立ち話した。そのおばさんたちは、寝台列車で今朝着いて、今日は佐々並
に泊まるとのこと。まだ2時間はかかるであろう。こんな季節によくやるわ。ご苦労なことである。


13:13 炎天下のアスファルト地獄から離脱。右の道を行く。

13:20 佐々並市の街道筋。国道や「道の駅あさひ」はずっと西よりだ。ここは主要道路から離れているのでゆったりした時間が流れている。

13:35 千持峠への入り口。再び上りになり、少々歩くペースが落ちてくる。

14:00 落合の石橋。両岸から石で支える独特の構造。これは歴史的な資料として国登録の文化財になっている。

14:30 七賢堂展望台。ここから、萩沖の海が見えるらしい。

しかし、はるか遠くはかすんでおり、海は確認できなかった。空気が澄む夜であれば、漁火が見えるかもしれない。

15:00 歴史の道への入り口になぜか柵があった。きっとけものよけなのだろう。紐でしっかりくくってあったので、解くことはせず、回り道してこの関門を通り過ぎた。

15:10 一升谷の石畳。急な山道を雨水から守るために先人が考えた石畳。調査の際に掘り起こされて確認された。昔の面影の残している貴重な場所といえる。

15:50 赤間関街道と萩往還の分かれ道の石碑。元も場所より少し坂の下に移されている。

素晴らしい。店の看板が地図になっている。このお店が一升谷への分岐点の目印になる。もっとも店は閉まっていたが。

 

最後の峠

 いよいよ明木市(あきらぎいち)に来た。看板が地図になっているユニークな店があったが閉まっていた。
明木も宿場町として発展し、市の町(商店の並ぶ町)としても栄えたようだ。静かな佇まいを見せている。
また、ここは萩と赤間関街道(下関)の分岐点でもある。川の流れも北になり、ここまで来れば、萩が近い
ことを予感させる。しかし、ほんんど休まないで下り道を歩いてきたため、疲れも相当たまってきている。
 最後の一踏ん張りだ。鹿背の峠を越えれば、そこは萩だ。いまや有料道路ができて一直線に萩に行ける
ようになっているが萩往還は峠越えだ。休憩所でひと時休む。水をガバ飲みした。樹林帯の中、風がなく、
体温がかなり上がっていたようだ。一気に汗が噴く出す。もう歩くのが嫌になってきた。
萩、明木の境界の道標を探したが見つからない。もしやと思ってしばらく引き返したが、やっぱり見つからない。
心残りであるが、しかたなく有料道路脇にある「道の駅萩往還公園」に下った。


15:55 静かな佇まいの明木の町。

鮎つりをしている人がいた。もう少し下流では禁止となっていた。

16:20 萩有料道路のトンネル。萩往還はこの山を越す。

16:27 最後の峠だ。ここを越えると萩市街地が近づいてくる。

鹿背坂の休憩所。山の中で湿っぽかった。椅子にもコケがびっしりで座る気がしなかった。

16:50 駕籠(かご)建場。ちょうど峠にあった。殿様一行が小休止をとるために設けられたところ。

 

やってきたぞ、萩の街へ

 道の駅 萩往還公園に来た。有料道路の料金ゲートの「料金を払ってください」という自動のアナウンスが
うるさい。この公園内には、吉田松陰記念館がある。無料なので入ってみた。記念館内には松下村塾が
再現してある。誰もいなかったが冷房がよく効いてとても涼しい。おもわず「松陰先生、日本はこれでいいの
でしょうか?」と問いかけてみたい気持ちになった。おそらく車で来た大半の人は、これを見て、よそ事の
ような感じで歴史を見ているのではないかと思う。少しばかり違和感を感じたので、先を急ぐことにする。
ここまで来ればもう少しだ。と思っていたら、足のマメも痛くなりだし、歩くスピードが極端に遅くなる。悴坂
(かせがさか)の一里塚は、起点の唐樋の札場から最初の一里塚だ。つまり残り4kmということになる。
しかし、ここからが地獄であった。
 涙松まで来た。ここは吉田松陰が萩を旅発つときに「帰らじと思ひさだめし旅ならば ひとしほぬるる涙松
かな」と詠んだところである。萩を旅立つ人は、ここから見え隠れする萩の町を見返り涙し、萩に戻ってきた
人は、喜びの涙を流すことから名づけられた。人の出会いと別れを感じさせる場所である。私の場合、足が
痛くて涙している。
 それにしても足が痛い。左足をかばうようにしたため、どうも右足を酷使したようだ。極端に歩くペースが
落ちている。今や時速2〜3km程度ではないだろうか。歩くのを止めようか。でも、ここまで来たのだから・・・
心の中で葛藤している。


17:10 たくさんの銅像があった。後ろは松陰記念館。

記念館内の松陰神社の再現。
 「先生、これでいいのでしょうか」

17:27 悴坂(かせがさか)の一里塚に来た。つまり、残り4kmということ。 がしかし・・・

17:40 涙松跡。 「この私、もう歩けないと涙する」(おそまつでした)


17:50

萩といえば、夏みかん。

 

(左下、下)

新しい道が出来ていた。てっきり、これがJR萩駅から北に伸びる道と勘違いしていた。そのため道に迷って、自分の現在位置を見失う事態に。


18:12  262号線のバイパス。H18に開通?

18:17 橋本橋が架けかわったと勘違いしていた。

 萩の町はイメージできていた。萩駅から262号線が橋本橋を通ってバスセンターの方に伸びている。
しかし、バイパスが出来ていたことを知らなかったのだ。旧道が整備されたのかなと思い込んでいた。
「これだけ立ち退きをするのは大変だったろうな」、とか「橋本橋が架けかわったんだ」。時代を感じる
なあと呑気なことを考えていたが、ここがバイパスだった。ただでさえ歩くのが苦痛なのに、途中で現在
位置がわからなくなった。ゴールの唐樋札場はどこなのだろう。これでも方向感覚はよい方である。太陽
の方向、山の方向から、自分の居場所くらい想像できる。しかし、この時は違った。夕暮れが迫り、ここ
まで来たのにとタイムオーバーのプレッシャーを感じている。体が思うように動かない。どうしよう、どうしよう。
普段は沈着冷静?な私がパニックになってしまった。

 

ゴールに到着

 なんだかんだしながら、ようやく最終目標地である萩の札場跡に到着。かつては萩城下町の中心地で
あったところだ。今はバスセンターが付近にある。萩往還は、ここを起点に三田尻の御茶屋までの53kmと
されている。とうとう歩き通したのだ。総歩行距離はいろいろ寄り道したので、おおよそ60kmというところか。
総歩行時間は18時間。よくもまあ、頑張ったものである。
 最後は、思考回路が動いていなかったのであろう。道を間違えて予定の場所よりかなり東の方に居た。
地元の若い兄ちゃんに道を尋ねた。まさか新しい道が出来ているとは・・・
 涙のゴールといきたいが、今日中に小野田まで帰らないといけない。感激する間もなく、唐樋の札場跡の
写真を撮って、痛む足をこらえながらさらにJR東萩駅まで歩いていった。なんとか予定の列車に間に合った。
(東萩駅20:06発、小野田21:55着)


19:02 札場跡の信号機


19:30

東萩には夕暮れに着いた。

今日中に小野田に帰るためには、この列車しかない。事前に調べておいた列車になんとか間に合った。

山口で寄り道したこと、萩で迷ったことが、最後まで影響した。もっと綿密な計画を立てべきだったかもしれないが、まあ、よしとしよう。

 

さいごに

 念願の萩往還を完全踏破した。二日目は山口で寄り道する余裕があったが、最後は、さすがに大変で
あった。
 街道沿いに多くの史跡があり、先達たちは自然への感謝や畏怖の念、非業の死を遂げた人への鎮魂、
そしてその場所で起きた歴史をいろんな形で刻んでいる。歩いたからといって人生観が変わるわけでは
ないが、今回、いろいろ考えさせられたことがある。
 私は、現代人が必ずしも能力が高く、優れているわけではないと思っている。むしろ昔の人の方が、
少ない情報の中で適切な意思決定をし、高い志(こころざし)を持ち、そして人への思いやりがあったので
はないだろうか。便利な時代になって、そういった忘れ去ったようなことを思い出させる旅でもあった。
車で行けば、1時間半か2時間くらいであろう。山口県は道がよいので、国道を70か80kmでぶっ飛ばして
走ってしまう。しかし、古人と同じ時間を感じながら、古(いにしえ)の道を歩く旅も悪くない。一人なので、
よけいに感じるところが多かった。
 その一方で、あまりに不自然に復元された施設については違和感があった(六軒茶屋や萩往還公園など)。
開発や観光を否定しているわけではない。これらは自然と対極にあるわけではなく、むしろ共生が求められ
るものであろう。そういう意味でもあまり手をかけず、荒れたままの道がよかった。もし、この街道に人を化か
すキツネやタヌキが昔住んでいたのなら、今の様子をどう思うであろうか。また、何億というお金が道の整備
に使われているが、私のような一部のマニアを満足させるためだけあれば、もったいない話である。

 まあ、難しい話は抜きにして、歴史を辿る道を歩くことは、今を見つめなおすよい機会になる。温故知新
という言葉がピッタリである。「古きをたずねて新しきを知る」である。
 なんか、今度は萩から防府に向けて逆コースを歩きたくなった。その時はキツネかタヌキがとびきりの
美人に化けて、ナビになってくれたら最高なんだけど。

おまけ

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